No.006

英雄は青い夢を見る



吐き出した息はずいぶん白くて思わずその寒さに身じろいだ。頬を刺すような風に季節の移ろいを肌で感じながらエンジ色のマフラーを巻き直して玄関先で待ちぼうけを食らうこと数分、隣の家から飛び出してきた彼女は俺を見てへらりと笑った。


「...遅ぇよバカ」

「ごめんごめん、ちょっと時間かかっちゃって」


同じように白い息を吐いて謝罪を述べながらも悪びれる様子のない目の前の幼馴染みは最近準備に少しだけ時間をかけるようになった。かき上げた髪の艶感や微かに香る甘い匂いだとか、そんな変化に気付かないふりをして冷え込んだいつもの道を並んで歩き出す。高校こそ別になってしまったが生まれた時からずっと一緒に過ごした俺達。最寄り駅までこうやって通学するのも当たり前になっているからこそ嫌でも些細なことに気づいてしまう。


"どうしよう堅治、王子様がいた"


そんな夢見がちな台詞をこいつが言う日が来るなんて思わなかった。引きつった顔で見下ろした目の前の幼馴染みは頬を染め"女"の顔をしていた。ちくりと刺さった棘はあの日から少しずつ深くなり痛みを増しているような気がする。
彼女への気持ちを自覚したのは遥か遥か遠い記憶。まるで兄妹のように育ってきた俺達だが性格は正反対でおっとりのんびり屋、それでいて泣き虫な彼女の腕を引いて歩くのが俺の役目だった。俺にとっては何をするにも鈍いこいつのペースは慣れたものであったが、他の子供からすればそうもいかない。その鈍さからよくイジメの標的にされていた彼女、そしていじめっ子を追っ払って泣きじゃくる彼女を慰める俺。そうやってずっと過ごしてきた。


"おれがずっとおまえのことまもるからもう泣くな"

"ほんとう?"

"ほんと!おれがおまえのヒーローになる"

"うん、やくそくね!"


たわいも無い幼子の約束と交わした小指、くしゃくしゃの笑顔をまるで宝物のように心の奥にしまいこんだまま時間は過ぎて行き、気付けば17歳。高校から別々になってしまい最初こそ寂しいなと、らしくなく思ったがバレー漬けの日々にそんな思いも薄れて行った。朝の登校は一緒だし帰ればどちらかが必ず互いの家に顔を出す。何気ない日常や愚痴を話して、こいつが悩んだ時は夜中まで相談に乗ることもあった。いつだって笑っていて欲しくて、隣でこいつの笑顔を守ることが出来るのならそれだけで充分な気がしていたのに。王子様が居ただなんてお前いくつだよ、そう悪態つきながらも頭の中は真っ白になった。一時的な気の迷いだろうと言い聞かせてはみたが駅のホームで頬を染めてしおらしく笑う俺の知らない彼女を見た瞬間酷く切なくなって、もうその隣に居られないのだと思った。


「ねぇ堅治、いつもありがとう」

「...何だよ急に」

「んー、何か言いたくなったの。私堅治がいなかったらきっと鈍くて引っ込み思案なままだったから」

「鈍いのは今も変わんねえだろ」

「もう酷い!」


唇を少し尖らせて拗ねる癖は昔から変わってなくて、いつかその唇に俺以外の誰かが触れることを考えただけで気が狂いそうになる。ただの幼馴染みの俺にそんな資格などないのに、一方的な独占欲に飲まれて行く。直接触れる勇気なんてないけれど無造作に巻かれたマフラーを巻き直してやれば彼女はにこにことまるで子犬みたいに笑う。ずっと側に居るくせにその屈託のない笑顔に慣れることはなくて、それだけで心臓が甘ったるさを帯びて煩くなった。


「確かに昔から鈍いけど、堅治が私のヒーローなのも変わらないよ」

「...っ、」

「いつだって堅治が私のこと守ってくれるから怖くても何でも出来る気がするんだよね」


そうやって簡単に俺の気持ちを攫っていくから、浮遊したこの想いは結局行き場を無くしてまた俺の所に戻って来ては居座って心をぐちゃぐちゃに乱して行く。
本当はその小さな身体をきつく抱きしめたいし、柔らかそうな唇にキスしたい。何度も好きだと言ってずっとずっと腕の中に閉じ込めていたい。
...そんなことをすればお前はきっと泣くんだろう?泣いて泣いて、その後は俺を傷付けたと思って無理矢理俺の事を受け入れるんだ。でもそれは俺が望む結末なんかじゃない。


「でもいつか堅治が他の誰かを守る日が来るんだろうなぁ」

「...ばーか。今はお前で手一杯だっつーの」

「ふふ、じゃあまだ私だけのヒーローだね!」


彼女の言う"いつか"は果たして来るんだろうか。他の誰かを目に映すことなんて想像すらつかない。悪態の裏に隠した想いになど微塵も気付かずに今日も彼女は別の男に想いを馳せるのだからやるせない。

駅の改札口、突然の挨拶に彼女は慌てて髪を手櫛で整えながら言葉を返していた。恥ずかしそうに視線を目の前の男に合わせては嬉しそうにはにかむ姿を見てたまらなくなる。
ちらり、一瞬向けられた視線に映るは嫉妬の色。ああ、わかってるよ。こいつに男の幼馴染みが居るってだけで面白くないんだろう?そんなに警戒しなくとも俺はじゃあねと手を振る彼女に手を振り返すことしか出来ないというのに。
当たり前が当たり前でなくなってしまう、わかっているくせに俺はただその瞬間を息を潜めて待っているだけ。それでも許されるのならぐしゃぐしゃの泣き顔も屈託のない笑顔も、今はまだ俺に守らせて欲しいと思ってしまう。
きっと彼女の王子様になんてなれやしない。だからせめてもう少し、あと少しで良いから彼女の唯一のヒーローでありたいんだ。
見つめた小さな背中に今日もひっそりとそう祈った。



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