No.004

この一瞬、キミに恋をして



 美容院に置いてある雑誌のモデルの子が可愛かったから、自分にも似合うんじゃないかと勘違いしてしまったことが運の尽きだった。口のうまい美容師さんに持て囃されて調子に乗って思い切って伸ばしていた髪を切った。
 モデルとは顔が違うせいなのか。それとも髪質のせいなのかはわからない。大人っぽさを目指したはずのショートボブ。だが出来上がった健全すぎるその髪型は祖父母の家の玄関口に置いてあるこけしによく似ていた。

 学校までの道のりは、普段のものよりも幾重にも重く感じた。いつもの登校時間よりも数分遅れただけで、周囲には同じ学校の生徒たちが列をなして校門へ吸い込まれていく。前髪を掴んで俯いて歩く道すがら、幸いにも友達やクラスメイトたちと鉢合わせることなく辿り着いたが教室ではそうもいかない。隠れる場所もなければ、まさか帽子をかぶって授業を受けることも出来ない。
 大仰な溜息を吐きこぼす。隣の席が黒尾だというのも陰鬱とした気持ちに拍車を掛けた。面白おかしく弄られるに決まっている。教室の後方のドアからクラスの中を確認する。幸い、朝練が終わっていないのか黒尾の姿は見えなかった。だが、私を視界に捉えた級友たちの目が丸くなるのを確認し、思わず顔を引っ込めてしまう。慌てて引き戸をスライドさせ、額を押し付ける。
「はぁ……」
「なに朝から溜息吐いてんの」
 背後からあくび混じりの声が掛かる。首を微かに捻り横目で確認すると、指先で目の淵を擦る黒尾の姿が見て取れた。一番会いたくない相手に、一番最初に会ってしまうこの不幸に、神はいないのだと嘆くには十分だ。
「お、はよ」
「おまえ、それっ」
 眠そうな目はどこへやら。私の姿を捉え、驚きに目を丸くした黒尾はその衝撃が過ぎた途端、盛大な笑い声を上げる。廊下を歩く生徒たちの視線が私たちに集まる。髪型を見られたらたまらない。咄嗟に身を竦め、黒尾を盾にして周囲の視線から逃れる。
「黒尾、うるさい」
 右手で口元を押さえ、左手で自らの体を守るように抱きしめた黒尾に静止の声は届かない。脇腹周辺の衣服を掴んで揺すっても、遠慮もなく豪快に笑う黒尾は、笑いすぎてか目を滲ませる始末だった。
「泣きたいのはこっちなんだけど」
「いやいやいや、お前俺を笑い殺す気かよ」
 私の背中を二度大きく叩いた黒尾は「あとでドロップ買ってやるからな」などとふざけた言葉を紡ぎ続ける。散々からかわれたことで自尊心のすべてが打ち砕かれたかのように感じる。
 脛でも蹴ってやろうか。乱暴な考えが頭をよぎるが流石に実行に移す気にはなれなかった。
「おーい、黒尾」
 うるさいと黒尾に連呼する傍らで声が掛かる。反射的に前髪を抑え、声がした方に目を向けると黒尾と同じバレー部の夜久君が片手を上げてこちらへと駆け寄ってきた。
「海からの伝言。今日の昼、ミーティングやるってさ」
「おぉ、了解。あ、そうだ夜久、こっち来いよ。面白いもん見せてやるから」
「ちょっと、止めてよ」
 前髪を掴んでいない方の手で黒尾の腕を掴んで引き止めたが、興味を引かれたらしい夜久君の歩みを止めることは出来なかった。
「なんだよ」
「ちょっとコイツ見てやってよ」
 背中に手のひらが触れる。待って、と引き止めるよりも先に黒尾の長い指先が私を夜久君の方へと押し出した。然程目線の高さの変わらない夜久君と視線を合わせることができなくて、思わず俯いてしまう。
「あれ、なんでおでこ抑えてんの?」
「なんでもないよ」
「熱でもある? 保健室連れていこうか?」
「や、ホントそんなんじゃないから」
 弁明をするために顔を上げ、額を抑えていない方の手をかざして静止する。事情を知っている黒尾が時折咳を交えながらもお腹を抱えて笑い続けていた。
「コイツ、髪切りすぎて気にしてんだよ」
 なー、と呼びかけた黒尾は額を抑える私の手を掴み、態とらしく揺すって引き剥がそうとする。私の表情が険しくなったことを知った夜久君は咎めるような視線を黒尾に向けた。しつこく伸びる黒尾の手を、頭を振ることで抵抗していると、見かねた夜久君が弾いてくれた。それでもなお、手を伸ばす黒尾から庇うためか、私の前に立つ。
「お前が意地悪言って困らせてんのはわかった」
「意地悪じゃないですぅー。本当のことですぅー」
 挑発的に唇を尖らせる黒尾に、呆れたように溜息を吐いた夜久君が私を振り返る。
「別に変じゃなさそうだけど…そんなに気になる?」
「気になるというか、気に入らないというか」
 言葉を濁しつつ答えると、夜久君の手が私の額に柔らかく触れる。だがそこには、無理矢理に手を引き剥がそうとするような動きは全くなく、添えられた指先は労わりさえも感じさせるようだった。
「ねぇ、嫌じゃなかったら見せてよ」
「……うん」
 柔らかな申し出にうっかり頷いてしまう。黒尾のようにからかわれることがないだろうと分かりながらも、その指先に従うにはほんの少しだけ勇気が必要だった。頑なだった指先から力が抜けたことを感じ取った夜久君の手が私の手を掴んだまま離れていく。顕になったであろう額を思うと、頬に熱が走る。触れてもいないのに自分でもわかるほどだった。
 真正面から差し向けられた夜久君の視線が目線よりも高く持ち上げられ、左右に揺れる。一歩退いた夜久君は、軽く握った拳で自分の口元を隠す。
 笑うのを堪えるためなのだろうか。嫌な考えが頭を過ぎり、体が硬直する。
 フ、と息を吐く音が耳に入る。たしかに夜久君は笑った。だけど黒尾のように嘲るようなものではなく、まるで花びらが開いてくかのような極上の笑顔だった。
「大丈夫だよ、すげーかわいいよ」
 単なるフォローのつもりなのかもしれない。落ち込んでいたからこその慰めの手段だとも取れる。それでも、なぜだかはわからないけれど、夜久君の言葉は胸に響いた。
「ほんと?」
「ほんとほんと!すっげぇ好き」
 ニッと口元を引っ張った笑顔が、一層きらきらと輝いて見えた。目の奥でチカチカと光が瞬く。
「あっ、俺に好かれてもしょうがないかもしんねぇけど」
 照れ笑いを浮かべた夜久君は後頭部を掻きながら困ったように眉根を寄せる。彼に倣い、私もまたうなじを払い、自らに生まれた熱を誤魔化した。
 散々黒尾に否定されていたせいかかわいい、と認められたことで面映く感じた。たったひとりの男の子の言葉のおかげで、救われたような気持ちにさえなってしまう。
「それ、夜久がショート好きってだけだろ」
「違ぇよ、かわいいからショートが似合うんだろ」
 黒尾と言い合いを始めてしまった夜久君を見つめていると、息の詰まるような感覚が身を蝕む。もじもじと夜久君の背中を眺めていることしか出来ない。
 ありがとう、と素直に伝えれば夜久君はどんな顔をするんだろう。胸の奥に生まれた痛むような熱を飲み込み、先程使ってしまったもの以上の勇気を胸に、夜久君の腕を引いた。



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