No.020

青春のかほり

 ひと目見て恋に落ちた。崖から谷底に突き落とされたような衝撃と、甘い香りが頭のなかを埋め尽くす。花が舞って、風が吹いた。ごった返しになった脳みそのなかをよそに、私の瞳は彼だけを映した。
 しかし、私がどれほど彼を見つめようと、想おうと、私と彼との間に共通点は生まれなかった。というのは間違いで、本当は気持ち悪いと思われるのがこわくて、近付けないでいただけ。私は運動も得意じゃないし、バレーのことなんてなにも知らない。


「教えてやる」


 風邪をひいて休んでしまった日に球技大会の人選が決められていた。休んでいた私が適当に人数合わせに加えられていた場所は、バレー。バレーのことなんてなにも知らない私が、バレー。
 クラスメイトを恨めしそうに睨んでいる私に、体育委員である岩泉くんはそう言ったのだ。
 その日から中庭の隅で始まった岩泉くんのバレー教室。彼は私に妥協せず、バレーのいろはを教えてくれた。一ヶ月後に迫り来る球技大会までにトスくらいはものにしてやろうと躍起になっていると、最初は私だけだった岩泉くんのバレー教室はいつの間にか人数が増えていった。


「上手くなったね?」

「最初は顔面で受けてたのにな」


 球技大会まであと一週間を切ったその日、私のトスを見ていた友達の結衣子と、岩泉くんのバレー教室を通して仲良くなれた長谷川くんが私に向かって言った。仲良くなれたのは長谷川くんだけじゃなくて、男女関係なく、クラスのみんなと仲良くなれた。それは根気よく運動音痴な私にトスを教え続けてくれた岩泉くんのおかげだ。私はいつの間にかクラスの真ん中に立たされて、きらきらとした毎日を過ごしている。このまま球技大会の日が来なければいいと何度か思ったけど、毎日の練習でだんだん上手くなっていく自分が少しだけ好きになれた。
 スパイクは打てない。レシーブだって、球はあらぬ方向へと飛んでいく。だけど岩泉くんが教えてくれたトスだけは、静かに、ゆっくりと、私の思い描くままに宙に浮かんだ。


「岩ちゃんの教え子は誰かな??」


 球技大会当日、私のことを物珍しそうに及川くんが見ていた。岩泉くんが及川くんに話したのだろうか。少し緊張したけど、ジャージでコートに立った今の私には関係ない。
 私は岩泉くんに教えてもらった通り、スパイクを打てそうな子にトスを上げ続けるだけだ。
 それから夏が終わって、今度は岩泉くんが舞台に立つ番が巡ってきた。
 球技大会をきっかけに仲良くなった岩泉くんは、私を春高の予選に呼んでくれた。どうして私を呼んでくれたのかまるで見当がつかなかったけど、とにかく嬉しかったことだけは本当だ。二階席のいちばん前の席で、手に汗を握りながら試合を見つめる。きっと、いまこの場でいちばん私が間抜けな顔をしている気がした。


「がんばって」


 最後の瞬間、私の小さな呟きなんて掻き消すように、ビーッという音が体育館内に響き渡った。スコアボードにぶら下がっているぺらぺらの布が一枚捲られていく。私はその日、青葉城西高校男子バレー部副主将としての岩泉一が終わる瞬間を見た。最後まで全力を出し切って戦っていた。ボールに食らいついていた。誰よりも高く跳ぼうとしていた。それは岩泉くんだけじゃなくて、彼の幼馴染みの及川くんも、ちょっと軽そうな花巻くんも、背の高い松川くんも、後輩の部員も、みんな頑張っていた。それなのに、負けた。
 なにかをするには勝ち負けが常に付き纏う。私はそれが嫌だった。


「負けた」


 試合後、私なんかと会う時間を作ってくれた岩泉くんの口から出てきたのは、いつものようにハッキリとしていて聞き取りやすい言葉ではなかった。今まで聞いたことのないくらい弱々しくて、彼が彼でないような気もした。
 それでも岩泉くんは、目の前に立つ私に笑った。


「でもあいつの方が、もっと苦しいはずだ。コンプレックスの塊みてえな奴だからな。後輩も俺たちに申し訳なさ感じてるみてえだし、俺は副主将だからこんなことで泣いてちゃ―」

「なんで、岩泉くんだって悲しいはずだよ。なんで他の人と比べるの。岩泉くんが悲しんじゃいけない理由なんてないよ。どこにもないのに。岩泉くんだって悔しいのに」


 やっぱり私の頭のなかにいた岩泉くんと今目の前にいる岩泉くんは別人だ。
 私が好きになった岩泉くんは、こんな風には笑ってなかった。


「そんな悔しそうに笑わないで」

「なんでおまえが泣くんだよ」

「岩泉くんが意地っ張りだから」


 岩泉くんは溢れ出た涙を服の袖で拭いて、ぐしゃぐしゃな笑顔を私に見せてくれた。いたずらで、それはまるで陽だまりのように暖かい。私の大好きな笑顔だった。


「すきです…」

「え?」

「岩泉くんと仲良くなれて嬉しかったです、あと、岩泉くんのおかげでみんなと仲良くなれたし、でも岩泉くんと仲良くなれたのがいちばんうれしかったです」


 私たちが出会ったのは運命ではなかったかもしれない。けれど、きっと偶然でもなかったと思う。だからいまここで伝えておかないといけない気がして、私の口からぼろぼろとこぼれ落ちるようにして岩泉くんの気持ちが言葉になって空気に触れていく。それはすこし歪だった。


「ほんと、おまえには敵わねーよ」


 敵わないのは私の方なのに。そう言おうと思ったけど、岩泉くんに引き寄せられてなにも考えられなくなってしまった。



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