No.002

Nameless hero



及川徹という人は間違いようもなく男で、尚且つ部活なんかもしてるため華奢ではない。
むしろゴリラ並みの筋肉を持つくらいだ。
しかしそれなのにどうしてか、彼はよく男女ともに絡まれた。
確かに顔の作りは綺麗なもので、女としては羨ましいものだ。
しかし彼としては毎度毎度絡まれていればなんだかそれもどうしたものかと悩みものでもある。
「いやー、俺ちょっとそういう趣味はないんで…」
引き吊った笑みを浮かべて酔っ払ったオッサンと距離を取る及川。
しかしオッサンは下品な笑みを浮かべたまま手を動かして及川に詰め寄る。
女と間違えているわけではないだろうが、それでもその顔はスケベ親父のそれだ。
「ほれほれ、いいだろ」
ゲヘゲヘと笑う気色の悪さにとうとう及川の顔から営業用のテンプレスマイルすらも消える。
伸びてきた手を叩き落とすと、オッサンは不機嫌そうに表情を変えてじろりと及川を睨んだ。
じろじろと上から下までじっくり見つめ、ジャージの胸元を見つめると今度はにんまりと笑った。
「せっかく部活やってんのに、人のこと殴ったなんて言われて出れなくなるの、嫌じゃない?」
それは抵抗するな、という忠告だ。
何を呑んだのかは知らないが、余計なところには頭が回るようなのだから随分とたちの悪い酔い方だ。
部活を引き合いに出されれば、どうしても体が固まる。
けれどそんな絶望にも似た状況に、その人は颯爽と現れた。
まるで映画のワンシーンのように。
「手を離しなよ、おじさん。通報されたくないでしょ?」
ケータイ片手にそう言った子は白いスポーツウェアに身を包んでいた。
セミロングの髪が電灯に照らされて茜や紫暗に輝き、その液晶には警察への番号が映し出されている。
「ほら、押してもいいの?」
彼女の指先が通話ボタンに近付く。
それは間違いなく、オッサンへの脅しだ。
すると酔いが抜けたのかサッと青ざめた顔をして逃げ出す無様な背中。
くたびれたスーツが余計にその背を惨めにする。
「大丈夫ですか?」
その背中を呆れたような安堵したような顔で見送る及川。
しかし彼女はまるでそんなことは気にしていないようで、ケータイをポケットにしまう。
光の当たり具合で及川からは彼女の顔は見えない。
「うん、ありがとう。助かったよ」
ほっとした、と形容すべき表情が無意識に浮かぶ。
なにせこんな思いをしたのは始めてだ。
これならまだ悪ノリする同世代に絡まれた方がマシだろう。
「ならよかったです。この時期は気をつけた方がいいですよ。宴会で悪酔いした人が多いので」
そう言ってあっさりと背を向けてしまった彼女。
手を伸ばせば案外簡単に捕まえることができたが、どうにも心の中は汚くかき混ぜられたようにまとまらない。
感謝と戸惑い、そして驚きと恐怖。
彼女を引き止めたところで、その感情がまとまる訳では無い。
しかしそれでもその姿を引き止めなければという理解不能の使命感に、及川はその手にじわりと汗をかいた。
「あの、」
こういう時に限って言葉が出てこない。
どうしようもないほど喉もかわいて、カッコ悪くて仕方ない。
それでも手を離せないのだから、自分はつくづく不器用だと心の中で嘲笑した。
「君、」
カラカラの喉がひっつきながら声になる。
ようやく絞り出した言葉がそれだなんて、自分を知る面々に見られたら腹を抱えて笑われるだろう。
「手、離したって逃げないですよ」
ギリギリと手首を締め上げるその手に視線を向けると、及川はようやく気付いてその手を解いた。
手首をくるくると回して違和感がないことを確認した彼女は、やはり光の加減で黒塗りになった顔を向ける。
「言いたいこと、まとまらないならまた今度でもいいですか?」
彼女の言葉に及川は目を見開いた。
心の内を読まれたこと。
しかしそれよりも、また今度、ということの方がよっぽど気になる。
彼女と接点などあるのだろうか。
むしろ彼女の顔すらも定かに見えていないことに焦りもある。
「また学校で。部活、お疲れ様でした」
そう言って背中を向けた彼女。
今度こそその背が遠のいて行く。
だが及川の中には彼女が告げた学校、という言葉が深く残っていた。
予想だが同じ青葉城西の生徒なのだろう。
知っていて敬語なのだから年下と考えて間違いない。
どこの誰かはわからないが、それでもなにも知らないよりはここまで情報が集まったのだから万々歳だ。
ぽつりと取り残された通りから駆け足で帰り、興奮冷めやらぬ様子で明日を待つ。
こんな胸が高鳴ることなんてない。
部活の試合だって、こんな感情にはならないのだ。
思い出す度に胸がキュンとする。
少女じみた似合わない感情は口角に現れ、態度にも出る。
なんか楽しそうね、そう言った母に緩んだ笑みを浮かべて別にと返したのは思春期の気恥ずかしさもあったからだ。
布団に潜り込み、目覚まし時計の確認をして目を瞑る。
脳裏に浮かぶのは黒塗りされた今日のヒーローの姿だった。




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