No.019

救世主になんかなれやしない



湯を頭から浴びたところで胸のざわつきが治まることはなく、興奮は冷めないままだった。そのことがまた俺を苛立たせる。力任せにフックにシャワーをひっかけ、早々に浴室を出る。濡れた髪を乱暴に拭きながら脱衣所の戸を開けると、こういうホテル特有の大きすぎるベッドの縁に遠慮がちに座る彼女を見つけた。背筋はぴんとまっすぐに伸び、全身から緊張が溢れ出している。そんな姿を見て、チリ、と痛みが脳を刺激する。ああ、苛々するなあ。あくまでも冷静を取り繕い、静かに近寄り隣に腰をおろす。それでも彼女は特に何か反応するでもなく、視線を落とし床を見つめているばかりだ。分かりたくもないことが、その表情、目の色、固く結ばれた唇から読み取れる。俺がこんなに近くにいたって、彼女の頭の中はいつも、どこにいるのかさえ分からないあの人のことだけだ。今も、つい数十分前に見た、彼女ではない女があの人の腕に絡みつくようにして並んで歩いていた光景を、繰り返し再生しているのだろう。どこまでも付きまとう、あの人の存在が邪魔だ。早くその影を消したくて逸る気持ちを理性とプライドで無理やり抑え込む。既に乾いている彼女の髪に手を差し入れると、細い肩がびくりと揺れ、自分と同じ匂いが空気を伝って舞い込んできた。甘い香りが心臓を刺す。どくり、どくり。大きく脈打つ鼓動のひとつひとつが、愛しいと叫んでいた。ああ、本当に、イラつく。思わず鳴らした舌打ちはエアコンの音にかき消され、生ぬるい空気と混ざりあい消えた。


「嫌ならやめるけど」


返事はない。いや、恐らく沈黙が彼女のなりの答えなのだ。そもそも嫌ならこんな所へのこのことついてくるような女ではない。分かっている。大体、俺だってやめるつもりなど微塵もない。それでも敢えて聞いたのは、この状況に胸を騒がせているのが自分だけだという事実がムカつくからだ。大袈裟に息を吐き立ち上がる。すると彼女は弾かれたように顔を上げ、俺のバスローブを掴んだ。


「…行かないで、」
「なんで」
「つらい、から」
「だから?」
「…だから、お願い」


忘れたいの。呟かれた言葉の最後の一文字までしっかりと聞き届け、再び視線が下に向けられたことを確認してから、口角を上げる。そう、それでいい。その言葉が欲しかった。本当にいいんだね、なんてまどろっこしいやり取りはしない。長く身体を押さえつけていた理性もプライドもかなぐり捨てて、その肩を掴んで押し倒す。今日二度目のキスは口づけというより、もはや噛みついているに近かった。


「協力してあげようか、忘れるの。」


話を持ち掛けたのは俺だった。数か月前、彼女はもういいのと泣きそうな顔で言い、忘れることにしたと口にしたあと両目から透明な雫をいくつも零した。しばらくは浮かない顔が多かったけれど、時が経つにつれ笑顔は増え、最近では仕事中、あの人と話し終わったあとため息をついたり、名残惜しそうに見つめることもなくなっていた。吹っ切れたのだと、思っていた。忘れたのだと、信じたかった。けれど不意打ちには対抗できなかったのだろう。帰り道、目の前で想い人が自分ではない誰かと夜の街に吸い込まれていく様は、忘れようとした努力も、決心も、そのための笑顔もあっけなく彼女から奪っていった。声をあげるでも押し殺すでもなく、ただ呼吸をしながら静かに涙だけが頬を伝う姿が痛くて仕方なかった。どうして俺ばかりがこんな姿を見なくてはならないのか。そう考えると無性に腹が立った。俺のことではない男に心を乱されている彼女も、そんな女にどうしようもないほど焦がれている自分も、腹立たしくて仕方なかったのだ。強引に肩をつかみ振り向かせ、その唇を食んだ。瞬間、鞄の落ちた音がした。がちりと固まった体は抵抗の意思も見せず、ただ崩れ落ちてしまわないよう俺の腕を掴むので精一杯のようだった。薄く目を開けて、あの人らがいた方へ視線を移す。そこにはもう誰もいなかった。もう一度目を閉じ、冷えた唇を味わってから顔を離した。


「なに、してんの」
「こうすれば、さっきの忘れられるかと思って」
「は、」
「一瞬、頭からとんだでしょ?あの人らのこと。」
「…そんなの、もう、また考えてるよ」


もう嫌だ。吐き出した彼女の顔が、歪む。そうだね、俺も、もう嫌だよ。お前のそんな顔を見るのは。俺のことでは決して見せないそんな表情なんか、俺のためではない涙なんか、消えればいいよ。溢れる涙に唇を寄せ、吸い込む。透明の道筋に舌を這わせ、雫が溜まる目尻と濡れたまつ毛に口づけた。開いた瞼の向こうから顔をだした目は、涙の膜に困惑と哀しみを滲ませていた。


「協力してあげようか、忘れるの。」




荒れた息と、シーツがこすれる音と水音だけが聞こえる。身体は互いに汗で湿っていて、時折額や前髪の先から雫が落ちた。彼女はなき続けている為か、声が掠れ始めている。それでも休ませるものかと動き続けた。やめてしまえば、空っぽになる。彼女が欲しくてたまらなかった俺の独りよがりが空しくて、上辺だけでもいいから彼女に俺を求めて欲しかった。目論見通り彼女は俺に縋り、共犯者となった。なのに、望んでいた結果を手に入れても何も埋まらない。どれだけキスを交わして濡れた息を混ぜ合わせても、吸い込む空気はひどく乾いていて、取り込んでも取り込んでも、満たされない。今が一体何時で、何度目の絶頂かも分からない中で、俺は満たされないことばかりに満ちているなと自嘲した。


「おい、か、」
「いいよ、無理して呼ばなくて」
「っ、」
「あいつの名前、呼びなよ」


泣き顔なんか見たくないのに、泣かせることしかできないのだ。俺が恋した彼女はいつもあの人の話をしていた。仕事で上手くいかなくて悩んでいるとき、どうしたらいいかわからないとき、失敗をしたとき、いつも助けてくれたのは彼だったと、彼は私の救世主なのだと、俺の愛した笑顔で言っていた。俺もお前を救いたいのに、ただ苦しめるしかできないのは、俺がお前に愛されたいと願っているからだ。見返りを求めずに手を差し伸べてやるには、彼女への気持ちが大きくなりすぎていた。無理だとわかっていながら、それでも心は求めることをやめられない。なあ、お願いだから、俺だけをみて。今だけでいい、そんな詭弁なんかもう言えやしないんだよ。終始、閉ざされ交じり合うことのなかった視線が、彼女が薄く瞼を開いたことで絡み合う。左右の目尻から、また涙が一粒ずつ滑り落ちていった。


「おいかわ、」
「なに」
「あんたまで、泣かないでよ」


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