No.018

いらない約束



「百本サーブいくぞー!」

 今日もまた、彼の声がいちばんに響く。

 少しずつ、少しずつ。肌を撫でる空気がカラリと乾き、朝晩は刺しこむような寒さを感じることも多くなった。夏は確実にその姿を消し、秋は一瞬にして通り過ぎ、冬がすぐ傍までやって来ている。春高の県大会決勝が近い。もう夏はいないのに。この白鳥沢の広く高い体育館だけは、天井までバレー部の熱気が渦巻いている。じわり。見ているだけで汗さえ滲んできそうなこの体育館の中で、実際に薄着のユニフォーム姿でコートを駆ける彼らの頬には滝のような汗が伝っている。この熱気を肌で感じても、その熱は自分のものではない。少し前まで、このコートと同じくらいの熱に自分も加わっていた。血を吐くような練習を積んで、それでもレギュラーとしてコートに立てるのはほんの数人。強豪白鳥沢高校。男子バレー部は特に有名だったが、かといって女子バレー部が弱小という訳ではない。その女子バレー部の中でレギュラーを勝ち取って、同じ中学からの腐れ縁でレギュラーを勝ち取るであろう級友と拳を合わせた日もあった。アンタも頑張りなよ、なんて言って、結局女子は決勝に残ることさえ出来なかったのだけれど。

「あと五十本ー!」

 レギュラー陣とベンチメンバーの絶え間ないサーブ。コートに散らばるボールを、一年生たちが集める。男子バレー部の鷲匠監督は特に厳しい。練習も、選手たちにかける言葉も、そしてレギュラーの選抜も。技術も高く、努力も怠らなかった腐れ縁の級友は、結局セッターとして最後の試合に出ることすら叶わないかも、しれない。
 日が暮れるのが早くなった。下がる気温と共に温度を失くしていく指先を握り込む。体育館の外はもう吐く息が白くなるほどなのに、窓ガラスを一枚隔てた向こうは別世界だ。その中で、全く手を抜くことなく、ボールを高く放り投げる彼に目が奪われる。高く投げられたボールを追って跳躍する身体。疲労もあるだろう。それでなくても厳しい練習の後だ。確実に体力は削られているはずなのに、脚は強く床を蹴る。後ろに反らせた身体から放たれるのは、力強く鋭い一閃。体育館の外にまで、ボールがコートに突き刺さる音が響く。

 見て、お願い、もっとよく見て。

 コートの端で、厳しい面差しで選手たちを観察する鷲匠監督に、直談判したい気持ちに襲われる。頑張っていない人間なんてこのコートにはいない。努力を知らない人間にレギュラーをやるほど、このバレー部は甘くない。知っている、わかっている。別に二年生の正セッターを否定するつもりもない。他にも、試合にすら出られないチームメイトだっているだろう。それでも。控えに回されて尚、手を緩めることを一切しない彼の姿を、見てくれと願わずにはいられなかった。

「あれ、お前、こんなとこで何してんの」
「英太……」

 いつの間にか練習は終わってしまっていたらしい。体育館にはまだ片付けを続ける下級生たちが駆け回っている。一足先に着替えを終えたらしい彼は、体育館の中に声をかけてからこちらへと歩いてくる。

「つか、寒くねぇ?ほら、手袋くらいしろって。お前セッターだろ」

 握り込んだ指先は、温度を失くして感覚も鈍くなっている。セッターなら、指先の感覚には気を遣え。昔、彼に言われた言葉だ。投げ寄越された手袋をなんとかキャッチする。手袋は、手が温かいうちにするから意味があるのであって、冷たい手を包んでも温かくはならない。それ以前に、その手袋は色も柄もセンスがなくて、とても指を通したいとは思える代物ではなかった。

「……私はもう負けたし、引退したんだよ。セッターは、英太じゃん」
「そうか。大学は、バレーしねぇの?」
「多分」
「ふぅん」

 セッターなら、指先の感覚には気を遣え。自分が口にした言葉を忘れるような男じゃない。彼の指は、いつ見ても綺麗だ。バレーをしていれば突き指なんて日常茶飯事だが、それさえないように気を付けているのだろう。爪も毎日きちんと切り揃えられている。もしかすると、ヤスリで削っているのかもしれない。普段の学校生活では普通の男子高校生らしくガサツな一面も見せるくせに、こういうところばかり繊細で丁寧だ。彼のポジションは自分には関係ない。あのコートの熱に、自分は加わることができない。決勝戦を戦うのは自分ではない。その先の全国大会を勝ち抜くのだって。だというのに。自分には関係ないはずの彼のひたむきな丁寧さが報われないことが、これほど悔しいなんて思いもしなかった。

「英太は、大学でもバレー、するの?」
「するよ」
「そっか……」

 手袋に指を通すでもなく弄びながら、何でもないように訊ねた答えは簡単に返ってきた。

「続けるよ。お前との約束も、果たしてねぇし」

 それも、先程のサーブと同じくらいの威力を持って。咄嗟に息ができなくなって、何度か咳き込んでしまった。大丈夫か、と背中を摩る大きな手は、あの強烈なサーブを繰り出したものとは思えないほど優しい。

「……とっくに無効になったのかと思ってた」

 あれは、白鳥沢で正セッターに選ばれた翌日だった。中学の頃から彼とは同じセッターとして練習や試合の組み立て、相手チームの攻略の仕方などを相談し合ってきた仲だ。お互いに努力は怠っていなかったし、セッターとしての技術力も自負していた。強豪でレギュラーを勝ち獲ることが簡単ではないことはわかっていたけれど、きっと互いに相手が正セッターになることを疑っていなかった。誰かに正セッターに選ばれたことを聞いたらしい彼は、自分のことのように嬉しそうに笑っていた。

「お前、正セッター獲ったんだってな!やったじゃん!」
「うん!英太に練習のコツとか教えてもらったおかげかな。英太も頑張りなよ!」
「おう!そんで、俺も正セッターなれたらさ……」

 疑っていなかった。正セッターになれたら、なんて、叶うことが当然の約束だと信じていた。あれから季節が巡り、当然のことなどないのだと知る。彼の口から約束の話が出ることはなく、あれはきっとなかったことになってしまったのだと思った。叶って当然と思える約束を交わしたのだから、お互いの気持ちは通じ合ったようなものなのに。未だ二人の距離は変わらないままだ。このまま変わらずに、いつか距離は離れてしまうのかと思っていたけれど。

「勝手に、無効にすんなっつーの」

 彼は白い息を吐き出しながら、不貞腐れたように唇を尖らせる。ずるい。不貞腐れたいのは、約束を宙ぶらりんで放置されたこちらの方なのに。そんな小さな子供みたいな顔をされたら、可愛さに絆されてしまいそうになる。

「んで?まだお前の彼氏の座は空いてんの」
「がら空き。私は鷲匠監督より厳しいんだから。条件に合わない人はお断り」
「はは、そんなら安心だな。で、条件なに?」

 正セッターになれたら。そんな約束、たぶんいらない。お互いの気持ちはきっと、ずっと前からわかってる。結局手袋に通すことのない指を、彼の綺麗な指先が優しく拾う。じわり。先程までコートを駆け回っていた熱が、その指先から伝わってくる。たぶんきっと、いらない約束だけれど。それでも。彼がそうなれることを、誰よりも望んで疑っていないから。

「変な手袋持ってる、正セッター!」

 だから叶えて、私のヒーロー。



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