No.017

彼は全部知ってるよ



火曜日の朝、三年生だけ受験に向けての特別講習の説明会との名目で体育館に集められた。
昨日の放課後はくたくたになるまで体力を使い果たしてそのまま一度寝てしまったせいで夜は中々寝つけなかった。小さなあくびを噛み殺す。
学年主任の教師が講習会の内容を説明する。マイクの音が反響して響くのを聞き流しながら、事前に配られたプリントに目を通した。
冷え込んだ朝の空気が足元から伝わり、防寒対策を怠った自分に少しだけため息を吐いて気休め程度に手を擦り合わせた。
受験についての心得について力を入れて語りだす教師の長い意気込みに、もうわかったから早く切り上げて教室に戻らせて欲しいと時計を見つめた。
思ったよりも長い時間に周囲の雰囲気もだらけたものになりそうな頃、ようやく言葉を締めて解散の合図がかかった。

それは教室に戻ろうと視線を上げたときだった。
小さな悲鳴と大きくなるざわつき。
隣のクラスの前方の列で何かあったようだ。大方、長い教師の説明で誰か貧血で倒れたのだろう。教室に向かおうとしていた足を止めてその場の様子を伺った。
聞きなれた声が響く。
「通してくれ!早く!保健室!」
岩泉一。
彼が顔色が悪い女生徒を横抱きにし、人の列を避け体育館の出口を目指す姿が目に入ってきた。
焦ったような横顔。抱えられた女生徒の手元からは血が垂れていて、シャツにまでぽたりと血の跡がついていた。
あっという間に体育館から出ていった彼らの後ろ姿を人の列から立ち止まったまま見ていた。
動けなかった。

「さっすが岩ちゃん」
あれはかっこよすぎだよねぇと一人言のようにぽつりとこぼした声で我に返った。
「及川」
「鼻血出して倒れた女の子を隣にいた岩ちゃんが運んだってとこでしょ」
だからお前が心配するようなことは何もないんだよ、と私に及川は言う。
「別に何の心配もしてないから」
「ふーん。じゃあ彼女のお前はあれ見て嫉妬とかしないんだ」
及川の何もかも見透かしたような視線に耐えきれなくなって、その視線から逃げるように体育館の床を見つめた。

岩ちゃん、岩泉一、はじめとは幼なじみの関係からつい最近彼氏彼女の間柄になった。でも幼なじみとしての付き合いの長さは幼少期からで、恋人になったからといって今さら他者に嫉妬するほどの初々しい関係でもない。
それにああいった場面ではじめが咄嗟に行動できる人物だというのはわかってる。お姫様抱っこは彼女の特権という訳でもない。わかってる。わかってるつもりだ。

「もう及川いちいちうるさいなぁ。及川が口を挟むようなことじゃないでしょ」
睨みながら口調を強くする。もう1人のこの幼なじみは何かといちいち構いたがる。よく見てるなと感心することもあれば、少し窮屈だったりもする。私は昔から及川のこういうわかりにくい微妙な優しさがいつしか苦手になっていた。
「ならいいけど……、てかお前その及川って呼び方、」
「それより部室にはじめのシャツとか置いてないの?血で汚れてるかもしれないから保健室に着替え持って行くけど」
言いかけた及川を遮るように言うと、及川はじゃあ部室に一緒に来なよと小さくため息をついた。

私が徹から及川へ呼び方を変えたのは別にはじめに何か言われたとかではない。
ただ、そうしたかっただけだ。線引きをすることで明確にしたかった。意味なんてものはない。徹の幼なじみとしてだけの優しさではない優しさが私にだけ向いていることが、私には後ろめたい。はじめのただ唯一の特別になることを選んでしまったのだ。はじめの真っ直ぐに見つめてくる瞳を私も同じように見つめたい。理由があるとするなら、ただそれだけだった。

部室から予備のシャツを受け取って、そのまま一緒に行くと煩い及川を連れ保健室に向かう。
もう二限目が始まっていて廊下は静かだった。
保健室の扉が少し開いていて中から声がする。一瞬扉を開こうか躊躇した私に構わず及川が勢いよく扉を開いた。

「岩ちゃーん!着替え持って来てあげたよ!Tシャツだけど」
「うるせぇ及川!保健室だぞ!」
「ひどい!せっかく岩ちゃんのためを思ってわざわざ部室寄って持って来たのに!」

いつもの二人のやりとりを横目に、ベッドに腰掛ける女生徒に声をかけると、彼女は私からさっと目をそらして小さく謝った。顔色は幾分かましに見えるが拭った血の跡が痛々しい。

「煩くしてごめんね。体調の方は大丈夫?着替え良かったらこれ使って。私の部活のTシャツ」
そっと差し出すと、彼女は血で汚してしまうと悪いから、それに着替えは自分も部活で使っているものがあるからそれを後で着替えると首を横にふった。

「恥ずかしいけど、本当にただの鼻血なの。突然出てきちゃって慌てて手で押さえてたらそれを岩泉くんが私が血を吐いたと思って……それで保健室に連れてきてくれたんだ」

つい先ほどのことなのに、大事に思い出すようにはじめを見ながら頬を染めて照れたように話していた。あぁこのこはこれではじめのことを好きになってしまったのだと私はどこか他人事のようにぼうっとした頭で思っていた。

「風邪?」
声かれてる、と彼女が喉に手を当てながら私に尋ねる。
「や、これは……ちょっと」
言葉を濁すように私が誤魔化すのを、及川ははじめに早く着替えをするように急かす声で遮った。

この寒い日だというのにはじめは朝練の後で体が暖まっていたのかブレザーを着ていなかった。抱えた彼女を降ろすときについたのだろう、白いシャツの腕の部分にかすったような血の跡が少しだけついている。幸いにもこれだけならすぐに洗えば汚れは落ちるはずだ。

ベージュのベストを乱雑に脱いで、ネクタイを引き抜く。その姿が昨日の放課後のはじめの部屋で見たそれと重なり、思い出して顔がかっと熱くなった。

「きゃあっ」
堂々とシャツを脱いで露になる鍛えられた身体に、私の隣ではじめの着替えに目を奪われていた彼女が小さく悲鳴をあげた。その仕草に思わずあざといなと思いつつも、自分の彼氏に好意を持っているであろう異性にそういう目で彼氏の身体を見られたくはない。

「ちょっと岩ちゃん!女の子の前なんだからもう少し気使いなよ!」
及川がそう言うと、はじめは言われて気付いたとばかりに悪いと言いながら慌ててこちらに背中を向けた。

その瞬間、驚き、息を飲む。
はじめの背中には出来たばかりの引っ掻き傷。
間違いなく私が昨日つけたものだった。一目見ただけでそうだと言わんばかりの背中の状態。明るい所で見ると一際目を引く。
恥ずかしくてたまらない。でも女の子への牽制にはちょうど良かったのかもしれないと性格の悪いことを思ってしまう。ちらりと彼女の方を見ると、彼女は唇を噛み締めて頷いていた。ごめんね、でもはじめを譲るなんてできない。声に出さずに謝った。
及川も全て察したのか何とも複雑な顔をしてはじめの背中から目をそらした。その視線が私と交わると及川はまたため息を小さくついて自嘲するようにらしくない笑みを浮かべた。

着替えたはじめは私たち三人の様子なんてまるで何も知らないかのように振り返って笑った。
制服のズボンに部活のTシャツというちぐはぐな格好だけれど、どんなはじめでも一番かっこよくて、やっぱり私が真っ直ぐに見つめることは難しかった。




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