No.015

三流は一流になれるか



 地上から約四メートル、眼が落ちて来る。
 始まりは、「悔しかったらもっと背を伸ばせ」と性格の悪さを露呈した罵倒に対し、反論を叫ぶついでに首を回したこと。ワンパターンな罵詈雑言を吐き散らす影山から苛立たしげに視線を剥がした直後に、校舎の窓からこちらを見ている視線を捉えた。「おい、入り口で騒ぐな!」キャプテンに制服の襟をむんずと掴まれ、それでも粘り強く視線を捕まえる。あれは、三年生の教室だ。窓の縁にもたれる女子生徒が、風に煽られる髪を手で押さえている。
「あの、キャプテン。あの人、知り合いですか」
 と日向が尋ねたときには、窓から姿が消えていた。「日向寝惚けてんじゃないの」と横切る菅原にからかわれ、けれど、彼は返す言葉すら飲み込んで──白昼夢のようなものなのかもしれないと、その日からしばらく疑っていたけれど──残像を追った。当然ながら、追う理由も、女子生徒の正体を知る必要すらなく、目に留まった漫画の内容が気になって仕方ないといった程度の、そんな些細な好奇心だった。
 連日、頭上から降り注ぐ視線に射抜かれていると、頭のてっぺんから地面に杭を穿たれたようなグロテスクな想像に至り、また固定されてしまうわけで、視線を受け取りこちらも見上げて、くしゃみのひとつでもして逸らしてしまえば、次の瞬間には忽然と姿を消す。奇妙な交流だ。朝練を終えてから他の生徒たちの波に混ざりながら、どうしてこちらを毎朝観察しているのかという疑問が湧いた。至極当然の成り行きだと思ったけれど、のちに、いくら鈍い日向でも悟る。あれは、おれではない別の誰か──例えば、日課のように口論をするおれと影山を仲裁する、キャプテンに穿つ杭なのではないのだろうか、と。成る程、それなら目が合うのも頷ける。教室はどこだろう、あの位置ならキャプテンと同じクラスだったりするのだろうか、綺麗な人だったなァ……と次々生じる感想は、やはり、その手の話題に鈍い日向翔陽だとしても。いくらそんな晩熟だとしても、彼女が日常生活に於ける特異点である可能性を、察していたのである。
 ある日、試しにその瞳をがっしりと捕まえて、笑いかけてみた。ニッ、という彼特有の、まさしく昇り立てのおひさまみたいな瑞々しい笑顔に相手は少なからず怯んだ様子を見せた。その場に件の澤村大地は居らず、部室棟がある方角から歩いてくるバレー部主将を示せば、彼女は瞬く間に顔を赤に染めて頭を振った。日向の予想は見事的中していた、あの女子生徒は、男子バレー部主将に恋をしているのだ。
「なぁ影山、レンアイって難しいよなァ」
「はっ?」
 昇降口で靴を履き替えながら、こいつ熱があります、と騒ぎになった。
 堅実な男・澤村大地は女性からの好感度も高い。その手の話題に鈍い日向翔陽だとしても、周囲の評価と女性の視線の意味は察している。キャプテンは怖い、あれは恐怖の象徴である。だが、あの厳しさあってこそ部員たちは総崩れになることもなく、まあ、度々騒動はあったようだが、概ねまとまった活動ができているのだろう。中学時代、寂しい部活動をしていた日向にとって、主将の貫禄、威圧、恐怖の類は確かに恐ろしいけれども、ありがたくもあるのだ。そしてあれほど力強く牽引してもらえるのなら、誠実性を絵に描いたような男・澤村大地が女性から好まれるのも納得できるというものである。
 ところが、どうしてか日向翔陽は機嫌が地底を這っていた。
 バレーに関する己が技量で苛立つとしても、それは練習を重ねる以外に解決の術がなく、実にシンプルな問題だ。長期間悩みはしない。だが、彼女にまつわる諸々はどうだろうか。「恋愛成就の応援をするのか?」いや、それはノーだ。「まずは教室を突き止めて事情を尋ねるのが先か?」いや、それもノーだ、そこまでする理由がない。「でも気になって仕方ない。名前くらいは知りたい」欲求は確実に日向の脳に根を張りつつあるのに、苗床で芽吹き開く花の正体が見えない。彼女が特異点である理由が、不明なのだ。
 ある日、練習中の体育館に、一人の女子生徒が訪れた。「澤村くん」と声を発した彼女を見て、日向は動きを止めた。ぐるり、とあの日の朝のごとく首を回して出入り口を向けば、それはあの人だった。毎朝毎朝、賑やかに登校する男子バレー部を観察している女子生徒だ。「先生から頼まれたの」走り寄る澤村に対し、ふにゃりとした笑顔を控えめに咲かせている姿はいじらしく、瞬間、ほんの刹那的に、日向の心臓がずくんと蠢いた。これまでの数日、言葉もなく交差していた時間の意味を知った。予兆があったからこそ、確信に辿り着いた。ぼうっと彼女を見つめる。コートの奥では影山が怒鳴っている。「おい日向、ぼさっとしてんじゃねえぞ!」
「……あ、そうか。悪い、今部室から持ってくるから、待っててもらえるか」
「うん、ここで少し見てるから、行ってきて」
 澤村が体育館から出る。取り残された女子生徒は、にこにこと練習風景を眺めながら、やがて、四メートルの高低差ではない、同じ地表に立つ日向に気づく。最初は、やってしまった、とでも言いたげに表情を強張らせていた。しかし、すぐにへこりと会釈して、澤村に見せたものと同じ微笑みを日向に向けた。ここでまた、日向は心臓が烈しく上下した。次のメニューに移る、とコーチが声を張っても、なんだか、右から左の耳へ素通りして返事もワンテンポ遅れた。
 床を抉るように鳴るスパイク音が、胸中を渦巻く複雑怪奇なもやを晴らしてくれないかと期待するも、それは叶わない。ならば、夢中で叩き付ける以外にできることはなかった。レシーブをして、ブロックをして、相棒からのトスを思う存分相手コートに叩き込む。東峰のような重さはなくとも、鋭さでは引けを取らない筈だ。そんなふうに、己の優位を無駄に目立たせて、雑念を撲った──そのときだった。
 ッパァン、と平手打ちにも似た小気味良い音が響いた。
 眼下で彼女が目を見開いている。高く跳ねながら、なんて綺麗な顔をしている生き物なのだろうと日向は感動した。感動しながら、着地をする。ワンバウンドしてもなお勢いが死なない豪速のこぼれ球が、日向の返球でコートに戻っていく。「すんません!」と誰かが謝罪し、日向もまた、額の汗を腕で拭ってから、踵を返した。
「あ、あの」
 杭が打たれる。穿たれる。貫かれて、足が止まる。
 彼女は微笑んでいる。ぐっと熱が競り上がり、耳が熱い。
「庇ってくれてありがとう。スーパーマン、みたいね」
 ほころぶ表情の豊かさ、彩りの美しさが、日向をこの上なくかき乱した。立ち去るつもりの足をそのまま固定し、汗でぐしょぐしょになったシャツの胸元を握る。名前が知りたい、話がしたい。どくどくと流れる血液に、湧き出る欲が乗っかって、全身をみるみるうちに循環する。「あのっ、おれ……」
 この日、不毛という言葉の使い方を、日向は覚えた。
 スーパーマンだと褒められて舞い上がっても、結局は、舞台袖に立ち、いつかいつかとスポットライトに焦がれる補欠の三流ヒーローに過ぎないのだ。レンアイとは難しい──数日前にぼやいた自分の言葉が酷く刺さる。それでも諦めずにはいられない、恋だと自覚してしまったからには、きっと。




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