No.012

ガラス越しの夜の果て



高校2年、というのはある種のブランドであるらしい。同じクラスの女子の言葉だ。
17歳というなんとも中途半端で割り切れない年齢は、様々な場面で取り上げられる。
3月生まれの自分にはあまりピンと来ないけれど、高校2年と17歳はほぼほぼイコールで結ばれるのだろう。


「松川ー、俺のクラスの転校生知ってる?」
「んー?」
「聞いたことない?3組の超イケメン転校生」
「あー」
「その転校生がよ…」


そんな高校2年の秋。11月。とある月曜日の放課後。
HR後にひょっこり現れ、なにやら熱心に話している花巻の向かいで、俺は適当に相槌を打ちつつ旅のしおりをめくっていた。
俺たち青葉城西高校2年生一行は、明日からこの宮城の地を離れ、しばし沖縄へ旅立つ。そう、高校生活一大イベントと名高い修学旅行だ。


「松川、聞いてねえだろ。何をそんな真剣に…」
「あ、おいコラ」


ひょいっとしおりをかっさらった花巻が、そのページに記された3日目の行程を見て「ふーん」と呟く。


「水族館、ねぇ」
「…んだよ」
「いや、松川やっぱ好きなんだなーと思って」
「は?」
「部屋にイルカのぬいぐるみあったじゃん?」


そういえば、及川にも言われたことがある。殺風景と言われた部屋に年季の入ったイルカのぬいぐるみが放ってあれば、まあ、目に付くのも仕方ないのだろう。

特に海の生き物が好きだとか、そんなことはない。けれど幼少時代の写真には、高確率で俺の傍らにイルカやペンギン、ラッコにシロクマが写っている。
犯人、というか原因というか。父は水族館という空間が大好きな人間だった。


そんな父に連れられて、小学4年の夏休みに「水族館に泊まる」という経験をした。
なんでも珍しい魚を飼育している水族館で、父が熱心に「この水族館のヒーローなんだぞ!」と語っていたことをよく覚えている。肝心の魚の名前は忘れてしまったが。

大きな水槽の前に寝袋を並べ、寝転びながら見上げた景色はひどく贅沢なものだった。
枕代わりにと父に与えられたイルカのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら、ぽかんと口を開けてそれを眺める。


「イルカ!イルカさん、好きなの?」


いきなり俺の視界ににょきっと生えてきたその女の子は、俺の腕の中のイルカとまったく同じぬいぐるみを抱えていた。


「私も、イルカさん大好き!やっぱりイルカさんはヒーローだよね!」


両手でぬいぐるみをつきだして、俺の腕の中のイルカに向かって「こんばんは!」とお辞儀させる。かと思えば、「あっ!」と声を上げて、ふたつのぬいぐるみを並べて見せた。


「見て見て!おそろいだよ。私ね、こんな風にイルカさんが寄り添って泳いでるの、1番好き!」


俺の腕からひょいっとイルカをさらって、その子は2頭のイルカに空を泳がせる。


「…この水族館のヒーローって、別にいるんじゃないの?」


不思議に思ってそう問うと、すぐに笑ってその子は応えた。


「おばあちゃんが言ってたよ。ヒーローは、みんなを笑顔にする存在だって。だから、私たちのヒーローはイルカさんなんだよ!」



それから、色々な話をした。
俺が宮城から来たことを知ると彼女は驚いて、仙台におばあちゃんの家があるから時々行くよと教えてくれた。なんだか胸がむずむずして落ち着かなかった。

すぐに訪れた消灯時間。
「明日、一緒にイルカさんを見に行こう」と約束して、後ろ髪を引かれつつ俺たちはそれぞれ眠りについた。並んだ寝袋の真ん中に、2頭のイルカを寄り添わせて。

けれども翌日、すぐ隣にあったはずの寝袋も、イルカの片割れも、泡沫のように消えてしまっていたのである。約束した明日は、数年経った今も来ていない。


あの、並んだそっくりなぬいぐるみ。俺の腕の中にあったその片割れだけが、あの夜の輪郭をぼんやりと象っていた。








「まつかわくん、ですか」


たどたどしく名前を呼ばれて顔を上げると、見たことのない顔の整った人間が立っていた。花巻が「お、ウワサをすれば」と言っているあたり、件の「イケメン転校生」で間違いないのだろう。それでも、軽率に「イケメン」と称することが出来ない理由が、その出で立ちにあった。

色素の薄い、ショートカットの髪。平均より高いであろう身長に、すらりと白く伸びた脚。
新入生のようにカッチリと真新しい白いブレザーと、チェック柄のスカートを身に纏うその転校生は、イケメンという言葉が似合いすぎる女子高生だった。
左肘にかけられた合皮の茶色い学生鞄とは別に、右肩に黒い大きなトートバッグを持っている。


「まつかわ、いっせいくんで間違いないですか」
「え…うん、俺だけど」


頭の中に?マークが浮かぶまま問われたことを肯定すると、緊張で固まっていたらしい転校生の表情が綻んだ。少しドキリとする。


「あの、これ!」


見慣れたふわふわのイルカが、トートバッグから飛び出した。


「え…、何、これ」


思ったまま呟くと、少し悲しそうに瞳が揺れる。けれどもすぐに、彼女は言葉を次々重ねた。


「あ、あの…覚えてないかもしれないけど小学生の時に水族館で…えっと、同じイルカのぬいぐるみ、私とまつかわくんで持ってて、それで…」


くるりと尾びれの方をこちらに向けて、ぐいっと俺の目前に差し出す。少しくたびれてしまった布製のタグが目に入った。黒く太い文字で「まつかわいっせい」とご丁寧にも記されている、タグが。


「へ…?」
「あの、父の仕事の都合で、寝てる間に急遽帰ることになったらしいんです。それで、父が手に取ったぬいぐるみが、まつかわくんの、だったみたいで…」


つまり、何だ。あの夏からずっと、部屋に転がる、どころか枕元にちょこんと寝転んでいるあのぬいぐるみが、彼女の物だったというのか。
つーかなんだ、「まつかわいっせい」って。おいコラ親父。響きこそ珍しいかもしれないが、漢字にしたら松と川と一と静だ。小4なめんな、習っとるわ。漢字で書けよ。なんでひらがなだよ。


「まつかわくん、もうあのぬいぐるみなんて持ってないと思うし、この子もいらないかもしれないけど、えっと、その…」


湧き上がった羞恥心も、目の前でわたわたと真っ赤に慌てる彼女を見ていたらすぐに落ち着いてしまった。そうして思う。ああ、この子、あの時の女の子なんだ、と。記憶の彼女は俺と同じ黒髪だったはずだ。色を抜いたのだろうか。それにしてはさらさらで綺麗な髪だと思った。

差し出されたイルカに触れる。うちにいるのと同じぬいぐるみなはずなのに、どうしてかこのイルカの方が柔らかく感じた。


「明日、返すわ」
「えっ…」
「あ、明日から修学旅行か。じゃあそれから帰ってから…」
「明日!…明日、がいい。朝一番に取りに来るから、大丈夫なら明日が…いい…」


もうどうしたって、可愛い女の子にしか見えなかった。こんな愛くるしいイケメンがいてたまるか、という話である。


「ねえ、約束覚えてる?」


そう問う声が、自分で分かるほどに幸福を帯びていた。心がひどく浮かれている。

イルカのぬいぐるみによってぼんやりと象られていたはずのあの夜の輪郭は、けれどもどうしてか、俺の記憶にこびりついて離れなかった。ずっと、ずっと。何年も。


「ヒーロー、会いに行こうよ。よかったら、一緒に」


トントンと示す指先には、修学旅行3日目の行程表。
あの日の水族館ではないけれど、明日をやり直すにはぴったりな場所だろう。

寄り添う2頭のイルカは、あの夜確かに存在したのだ。



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